谷田部キリスト教会
メッセージ



「豊かな恵みゆえにあわれまれる神」 

 聖書のみことばに、競技者が賞を得るためにまた失格者にならないために自制するという 様子を、私たちの人生にたとえているところがあります。「闘技をする者は、あらゆること について自制します」と書いています。コリント人への手紙第1、9章です。ところが、続 く10章には、残念ながら失格者となってしまったイスラエルの民の姿が記されていまして、 人生の失格者となった具体的な事例が列挙されています。彼らは苦しみの中を歩みました。 そして聖書のみことばは私たちに語りかけています。「これらのことが起こったのは、私た ちへの戒めのためです。それは、彼らがむさぼったように私たちが悪をむさぼることのない ためです」と書かれているのです。更に聖書は語っています。

「あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですか ら、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐え られるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます」

コリント人への手紙第1、10章13節

 試練の中を歩むということについて、このみことばを通して幾つかの励ましが語られていま す。第一に、試練は「みな人の知らないものではありません」と書かれています。つまり『あ りふれたものごと』だと言っているのです。人の力を超えたものではないということです。私 たちは自らの受ける苦しみは特別であるかのように思います。また人知を超えたもののように 感じることがあります。しかし試練として受ける苦しみは、誰もが経験し得ること、ありふれ たものごとだと言うのです。ということはその苦しみを知って理解してくれる人がいるという ことです。
 そして第二に、試練を通して私たちを試し練りきよめようとされるのは神であって、神は「 耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません」と言っています。つまり神は傍観し ておられるのではなく、私たちに関心を持ち、関わってくださっているのです。そして、苦し みに耐えるために私たちが持っている力、 それ以上の試みには遭わせられないと言っているの です。 神は真実な方なので、その人の力量を超えたような試練を与えられないということです 。それは私たちが超えられない試練はないと言うことです。
 更に第三のことは、「むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてください ます」と言われていることです。神に信頼して試練に耐えようとする者には、「耐えられるよ うに」してくださり、そこに「脱出の道」を開いてくださると言うのです。神は、試練と共に 、そこから逃れる道も必ず備えてくださると約束しているのです。この「脱出の道」という言 葉は、閉じ込められた人々が絶体絶命の状況から、細く狭い山道を通って辛くも逃れたと言う ような、その狭い道をイメージしていると言われます。逃れる道というのは大通りではありま せん。狭い道を連想するでしょう。

 神はあわれみをもって導いてくださいます。しかも忍耐強い神は、幾たびとなく御手をのべ てくださるのです。そのような大きなあわれみをいただいているのですから、罪に歩んではい けないと聖書は警告しています。繰り返すなとの警告をも与えられています。こんなにもあわ れんでくださったのですから、その愛に応えて、方向転換をしてはいかがでしょうか。もう繰 り返すのをやめてはどうでしょうか。悔い改めて神のもとに立ち帰ろうではありませんか。
 脱出したという場合、それは辛うじて逃れるということでしょう。しかし逃れ出たならそこ はもう安全です。神は私たちが試練の中を歩んでいても、必ず安全なところに置いてくださる のです。

(終)






「終わりの日のよみがえりの希望」 

 気象の変化に異常さを感じ、環境破壊による異変と関係して、多くの人々が自然界が崩壊す るのではないかと感じているこの時代です。そのような中で、自らの人生の終わりの日につい ても考えさせられたるのではないでしょうか。世の終わりの日の前兆としてイエス・キリスト が言われたみことばがあります。それはまた、私たち各人のこの世における終わりの日と深く かかわることでもあるのです。

 石が積まれたまま残ることのない日
 マルコの福音書13章に、イエス・キリストが世の終わりの日について語られたことが記され ています。そのことを語られたのは「イエスが、宮から出て行かれるとき」と書かれています ので、それは主イエスと弟子たちが、エルサレムの神殿に行き、そこから出て来ようとされた 時の会話であると言うことが分かります。イエスの弟子のひとりが「これはまあ、何とみごと な石でしょう。何とすばらしい建物でしょう」 と言ったと書かれています。 つまり神殿の立派 さに目を見張って、『立派ですね』と語りかけたというわけです。この時弟子たちの言葉に、 イエス・キリストは「この大きな建物を見ているのですか。石がくずされずに、積まれたまま 残ることは決してありません」と答えられたのです。つまり弟子たちが『立派だ、すばらしい !』と言っているこの神殿は、必ず崩壊する日が来ると言われたのです。それはただ神殿のこ とを言われただけではありません。神殿の崩壊を予告しつつ、この世の終わりの日がやがて来 るということを、イエスは弟子たちに語ろうとされたのです。素晴らしい、立派だと感動を覚 えるこの世のものが、やがてみな崩壊する、そういう世の終わりの時が来るということを教え られたのです。
 ところで、エルサレムの神殿については、聖書に三つの時代の記述があります。第一の神殿 は、ソロモン王によって建てられた最初の神殿です。第二の神殿は、ソロモンの神殿と同じ場 所にBC516年に建てられたゼルバベルの神殿です。そして第三の神殿がヘロデの神殿と呼 ばれています。この神殿がイエスや弟子たちが見ていた神殿です。誰が見ても称賛するであろ うし、その立派さは格別だったと思われます。
 この三つの神殿は、いずれもやがて崩壊しました。イエスが言われた通りに「石が積まれた まま残ることのない」状態になったのです。イスラエルの人々は、それを歴史上の事実として 見せられ、教えられてきたのです。イエス・キリストが神殿の「石がくずされずに、積まれた まま残ることは決してありません」と言われたのは、このヘロデの神殿の崩壊とともに、終末 的な意味での終わりの日のこと、その日には目に見える全てのものが崩壊するということを語 っておられたのです。今は豪華さや立派さを誇っているようでも、やがて全てが崩壊してしま うと仰せになったのです。

 世の終わりの日とその前兆
 この後、主イエスと弟子たちは、エルサレムの近くのオリーブ山に行って、少し離れた所か ら神殿を眺めていました。そこで弟子たちは再びイエスに問いかけたのです。「お話しくださ い。いつ、そういうことが起こるのでしょう。また、それがみな実現するようなときには、ど んな前兆があるのでしょう。」と。
 「いつ、そういうことが起こるのでしょう」と問うていますが、「そういうこと」とは神殿 が崩壊するようなことです。また「あなたの来られる時や世の終わりには」と言い換えていま すので、弟子たちはイエスの語られた神殿崩壊の予告に終末的なメッセージがあると感じ取っ ていたようです。神殿が破戒されることと終末的なこととを結び付けて聞いていたのです。「 あなたの来られる時や世の終わり」と弟子たちが言ったのは、キリストが地上を去られた後に 、再び世においでになる再臨の日のことを言っており、またそれは世界の終わりの日のことを 示しているのです。ですから、イエス・キリストが再び世に来られる日のことを、そして世の 終わりの日のことを示しておられると彼らには分かったのでしょう。
 世の終わりの日、その日の来ることが本当なら、それが前以て分かればよいのにと誰もが考 えることでしょう。前兆を知りたいと願うものです。そしてその日のために備えをしなければ と思うことでしょう。弟子たちもそのように思ったのでしょうか。イエスに「どんな前兆があ るのでしょう」と問いかけたのです。この弟子たちの質問に答えて、イエスはその前兆につい て語られました。幾つかの前兆をお示しになったのです。
 まず「人に惑わされないように気をつけなさい」と警告しておられます。よくよく注意しな いと惑わされてしまうからです。 そして「わたしの名を名のる者が大ぜい現れ、『私こそそれ だ』 と言って、 多くの人を惑わすでしょう」と言われました。 つまり偽りのキリストが出てく るということです。次に「戦争のことや戦争のうわさを聞いても、あわててはいけません。そ れは必ず起こることです。しかし、終わりが来たのではありません」と語っておられます。ま た「民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり」と書かれています。そして「方々に地震が あり、ききんも起こるはずだ」と語られています。イエスは「それは必ず起こることです。し かし、終わりが来たのではありません」と言われています。また「これらのことは、産みの苦 しみの初めです」とイエスは言われました。前兆は終わりの様子ではありません。あくまでも 前兆なのです。これらのことを見る時に、終末の近いことを知るように、賢く見極めることを 主イエスは私たちに教えておられるのです。神のさばきの時が近いことを、御国の完成が近い ことを、そして私たちが永遠のいのちに入れられる日が近いことを覚えるようにと言われたの です。
 歴史の中で、人々は、そして私たちはこのような時の近づきを感じて来たと思います。そし て今この時代にあってもやはり終わりの日が近づいているのだろうかと思うのです。主イエス が話された前兆が見られるからです。ですから私たちの歩みが、いつその日が来ても備えがで きていると言える歩みであるようにと願うものです。各人の人生の終わりの日についても、体 調の不調や、危機的な経験や、また自然災害などに遭遇して、私たちは人生の終わりの日を感 じるのではないでしょうか。また親しい者の死に遭遇した時にも、そのように感じるのではな いでしょうか。その近づきを知って備えなければなりません。

 イエス・キリストの十字架の救いを信じる者に、よみがえりのいのちが約束されていること を、そしてこの世にあるものが全て崩壊しても永遠の神の御国が備えられていることを、信仰 によって受け止め、そこに希望の光を見いだして歩みたいと思います。


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日本福音キリスト教会連合 谷田部キリスト教会 茨城県つくば市台町2丁目10-14
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