谷田部キリスト教会
メッセージ



2017年 新年メッセージ 

「真の礼拝者として歩む」                ヨハネの福音書 4章21〜24節 

 主の2017年を迎えました。あけましておめでとうございます。本年も皆さんと共に主の御恵みの内を歩ませていただきたいと思います。

 今年は、私たちの教会が加盟しています日本福音キリスト教会連合の設立25周年の年です。特別な行事があるわけではありませんが、四半世紀の歩みを振り返る良い機会となればと思います。昨年ある集まりで、連合設立の目的を再確認しこれから後どのように進むべきかという内容の講演を聞きました。その中で語られたことの一つに、今の時代の諸問題が、聖書の新たな解釈を生み出しているということ、これまでの聖書理解が変わってしまうような動きがあるとの指摘がなされました。聖書から時代の諸問題に新たな洞察が生まれるということがこれまでに沢山ありましたが、その逆で、時代の諸問題によって聖書理解が変えられていくという問題が生じているとの指摘です。こうして信仰が歪められていくことは、これまでのキリスト教会の歴史の中で何度も経験してきたことです。しかしその都度、主はみことばに立つ者を起こされました。それは各地にある地域教会の中にも見られたことですが、また世界全体に及ぶような大きな動きとしても起こりました。宗教改革はその最も顕著な例です。
 今年はマルティン・ルターによる宗教改革500周年の記念の年でもあります。ルターが、『聖書に書かれていないことは認めることができない』と語ったこと、また礼拝の場で積極的に讃美をささげることを奨励したことなどから、教会はみことばに立ち返り、形骸化していた礼拝が新しくされ、こうしてルターによる宗教改革は時代に流され歪められていた教会を主に立ち返らせたのです。1517年10月31日に、ルターがドイツのヴィッテンベルク大学の礼拝堂の扉に95ケ条の論題を提示したことが、宗教改革の始まりです。この論題の正式名称は『贖宥状の意義と効果に関する見解』と言うのだそうですが、当時のカトリック教会の免償とか贖宥の教え、つまり罪の罰を免除または軽減するという教えに対して、ルターが疑問を感じ発表した提言です。当時のカトリック教会は、罪の償いを軽減するための証明書というものを発行していました。いわゆる免罪符です。善い行いや多額の献金を代償として罪に対する罰が免除されるという証明書です。中世の末期、教会の財源を増すためにこの証明証が乱発されたそうです。特に聖ピエトロ大聖堂、バチカンにあるカトリック教会の本部ですが、これを改築するために発行された贖宥状に対してルターは抗議し、それが宗教改革の発端となりました。そしてこの宗教改革を支持した人々の群れがプロテスタント教会となりました。この記念の年を迎えて、世界の各地で諸行事が執り行われようとしています。私たちもこの改革された信仰に基づくキリスト者の歩みについて考える一年でありたいと思います。特に宗教改革によって刷新された礼拝について、その真のあり方を学ばせていただきたいと思っています。真の礼拝者として歩むことを心がける者とならせていただきましょう。

  サマリヤを通られたイエス
 お開きしていますヨハネの福音書4章に、主イエスがユダヤからガリラヤに向かわれた時のことが書かれています。その途中に主はサマリヤの町を通られました。当時のユダヤの人たちは、ガリラヤに向かう時にこのサマリヤを避けて旅をしました。ユダヤ人とサマリヤ人は対立していたからです。しかし主はあえてサマリヤを通られたのです。四節に「しかし、サマリヤを通って行かなければならなかった。」と書かれています。それはこのサマリヤの町に住んでいた一人の女性に会うためでした。23節に主がこの女性に語られたことが記されています。「真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。」と話されました。そして続けて24節にあるように「神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」と語られ、繰り返して「霊とまことによって…礼拝」するということを語られたのです。この主のお言葉に、神にささげる私たちの礼拝について教えられています。「真の礼拝者」であるようにと、そしてそれは「霊とまことによって父を礼拝する」者のことであり、それが神の「求ておられる」礼拝者の姿であると言うことを主が語っておられることを知ることができます。
 先程も申しましたが、ある集まりで25周年を迎えた連合のこれからの歩みについて語られた中で、礼拝について深く学ぶ必要があると教えられました。私たちは礼拝の民です。ギリシャ人は人を『上を見る者』と表現しましたが、何かを極めたいと思う向上心やより尊い価値を求める心が誰にも備わっています。人は永遠の神を見上げ、この方を喜ぶとき、真に生きることができるのですが、神を礼拝する者とされたということ、それは日常生活の中で常にいただく恵みであり、また主のよみがえりを記念して主日にささげる公同の礼拝においていただく恵みでもあります。その礼拝が、「霊とまことによって」ささげられているかが問われているのです。

  真の礼拝者たちの礼拝
 さて、サマリヤの女性はこの時主イエスに初めて出会ったのですが、にもかかわらず主が自分のことを全てご存知なのに驚いて、「先生。あなたは預言者だと思います。」と告白しました。19節に書かれています。そして続けてイエスに質問しました。「私たちの父祖たちはこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムだと言われます。」と尋ねたのです。20節です。そこでイエスは「わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。」と答えられました。サマリヤ人とユダヤ人の間には、信仰的な対立がありました。ユダヤ人はエルサレムに神殿があると言い、サマリヤ人はゲリジム山で神を礼拝するのだと言って、互いに言い争っていたのです。しかし「真の礼拝者たち」の礼拝は、そういう場所に縛られるような礼拝ではないとイエスは語られたのです。確かに救い主であられるイエスが来られるまでは、人々はいけにえをささげるための場所を必要としていましたので、その祭壇が築かれている所で礼拝しなければならないと思っていたのです。しかしイエスがキ リスト、救い主として世に来られて、十字架において私たちのために身代わりの死を遂げ、罪の贖いを成し遂げてくださったので、動物のいけにえが不要となったことを通して、いつもでもどこででも主を礼拝することが明らかにされたのです。それが「真の礼拝者たち」の礼拝だと主は語られました。
 私たちはいつでもどこででも、神を礼拝して歩む者とされています。神への讃美と感謝と献身をもって歩む毎日が礼拝の生活であり、そうして神に栄光を帰しつつ歩む生活が「真の礼拝者たち」の礼拝なのです。

  霊とまことによって礼拝する
 主イエスは「真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。」と言われました。
 「霊…によって礼拝する」とは、形式や表面的なものでなく、真心を込め、全身全霊で礼拝すること、心から礼拝することです。『心ここにあらず』という言葉があります。それは集中力を欠いた状態を表しますが、それでは「真の礼拝者たち」がささげる礼拝になりません。教会堂にいても、他のことに心が向けられているなら、それは「真の礼拝」とはなりません。しかし心を込めて礼拝したと思っていても、私たちのささげる礼拝は、全く神のみこころにかなうものではありません。私たちは神の聖霊の御力をいただいて礼拝しているのです。主イエスはここで、私たちの霊と共に神の御霊によって礼拝するという意味で「霊…によって礼拝する」と言われたのです。ピリピ人への手紙3章3節に「神の御霊によって礼拝をし、キリスト・イエスを誇り、人間的なものを頼みにしない私たち」というみことばがありますが、神の御霊である聖霊が私たちのうちに働いてくださり、このお方が霊なる神を礼拝することができるように導いてくださるのです。私たちが心から礼拝しても、それは不十分なものですから、聖霊の導きとみわざに委ね信頼して礼拝をささげるのです。
 更に「まことによって父を礼拝する」と主は仰せられました。この「まこと」とは真理のみことば、聖書のことです。つまりみことばの真理に基づいて神を礼拝すると言うことです。みことばにより教えられた知識に従って礼拝するということです。みことばによって主を知り、そうして知り得た主の御名をほめたたえる、それが「真の礼拝」です。みことばによって、神を礼拝し、神と交わることです。またこの「まこと」は、真理のみことばであるイエス・キリストご自身を指しています。キリストが教会のかしらとして、また主として、礼拝の中心に臨在していてくださる、それが礼拝です。イエス・キリストに聞き、主に学ぶことを通して父なる神を礼拝するのです。

  真の礼拝者として歩む
 何時でもどこででも、御霊とみことばによって礼拝する、それが神の「求めておられる」礼拝であると主は語られました。23節の後半を見ますと「父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。」と語っておられます。主イエスは「真の礼拝者たちが…父を礼拝する」と言われましたが、それは私たちが「真の礼拝者」とならない場合があるということでもあります。あなたは「真の礼拝者」ですかと問われているように思われます。
 先程中世の宗教改革のことをお話ししましたが、ルターは改革以前の教会の礼拝は「霊とまことによって」ささげる礼拝ではないと思ったことでしょう。ルターによる宗教改革には、信仰によってのみ義とされるということ、また聖書のみに権威を置くこと、全てのキリスト者が祭司としての召しをいただいているということ、この三つの柱があり、プロテスタント教会の基本的教理が確立したのです。ルターは聖書をドイツ語に翻訳し、キリスト者が日常の言葉で聖書を読めるようにしました。また多くの讃美歌も作り、これまでは聞くだけだった讃美を会衆のものとしたのです。「霊とまことによって」礼拝をささげるということからかけ離れていた教会を立て直し、みことばに基づく信仰へと導いたのが宗教改革でした。
 主が求めておられるのは「真の礼拝者」です。「霊とまことによって」ささげる礼拝です。私たちは心から礼拝をささげているでしょうか。聖霊とみことばによってささげる礼拝となっているでしょうか。「真の礼拝者」として歩ませていただきたいものです。

  まとめ
 主は「真の礼拝者」が「霊とまことによって」礼拝する、「今がその時です。」と言われました。いつかそういう礼拝をささげたいと思って先延ばしするのではなく、今、霊とまことによって礼拝する真の礼拝者としてくださいと祈ろうではありませんか。

(終)


 過去に掲載されたメッセージはこちらから
日本福音キリスト教会連合 谷田部キリスト教会 茨城県つくば市台町2丁目10-14
Japan Evangerical Church Association - Yatabe Christ Church
http://www18.ocn.ne.jp/~yatabe/
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