「私達は土の器」
「私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです」
コリント人への手紙第U 4章7節
「土の器」ということばは、直接聖書を読んだことのない人でも多くの人が知っている聖書のみことばです。もろくも壊れやすい人間の弱さやはかなさを表現しています。大伝道者であったパウロは、四方八方から苦しめられ、涙し、途方にくれては天を仰ぎ、倒されては、うめきあえぐ、そういう自分は壊れやすい土の器だと言っています。 私たちも、事実、土の器です。すぐに壊れてしまうのです。つまずいて、転んで、頭を打っただけでいのちを失うことがある、そういう土の器なのです。ちょっとした出来事でも、心に大きな傷を負う、そういう意味でも土の器です。ですから、どんなに外側を磨き、立派な覆いをかけても、私たちは「土の器」であることに変わりありません。
しかし、土の器であるということは、もろく壊れやすいものではあっても、宝を入れることが出来るということです。私たちは土の器ですが、それゆえにこそ、その中に入れたものによって、私たちの人生が決定すると言えるでしょう。私たちの心に何を入れているかが問われているのです。器は何のために用いられるかで、その価値が決まってくるのです。器はあくまでも土の器であっても、イエス・キリストの福音を「宝」としていただくなら、測り知れない力を持つ土の器となるのです。上記のみことばに「私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです」とあります。これがイエス・キリストの救いです。四方八方から苦しめられ、うめきあえいでも「…窮することはありません。…行きづまることはありません。…見捨てられることはありません。…滅びません」と、パウロは自らの経験を語っています。「いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが」と言うのですが、しかし「イエスのいのちが私たちの身において明らかに示される」とも語っています。
前日銀総裁の速水優(はやみ・まさる)氏は、熱心なクリスチャンです。講演をされる時には、このみことばをよくお開きになります。苦難の人生を送る中から信仰に導かれ、イエス・キリストを信じてクリスチャンになられました。長年同じ教会に籍を置き、どんなに多忙な時でも日曜礼拝に出席し、聖書を読み、説教を聞き、讃美歌を歌い、祈る、それが、一週間の歩みを反省し、次の一週間に備える場となっていると言われるのです。そして、自分が『土の器』であることを忘れないことが、様々な決断の支えであったと語っておられます。
私たちも、土の器に宝を入れることができます。 弱くはかない者ではありますが、 器となって役に立ち、存在の意味を持ちうる人生を送ることができるのです。イエス・キリストの福音を「宝」としていただき、測り知れない力を持つ土の器となるのです。
「伝道メッセージから」
旧約聖書に「ゆずりの地」「相続地」「受け継ぐ地」という言葉がありますが、それは神に信頼する者たちに与えられる天の御国の祝福を予表するものです。そして、新約聖書の記者は、神と神の国を相続すること、つまり天の御国でいただく永遠のいのちの祝福を、神が与えてくださる最大の祝福として語っています。神は、神に信頼する者に、天の御国の恵みを、「相続地」として与えてくださるのです。
ペテロの手紙第T、1章3〜4節にこのように書かれています。
「神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、 生ける望みを持つようにしてくださいました。 また、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これはあなたがたのために、天にたくわえられているのです」
真の神を知らず、また神を無視して歩んでいた私たちを、神はあわれみ、イエス・キリストが十字架に死に、死からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれ変らせてくださり、天の御国のいのちを持つものとしてくださったのです。つまり「生ける望みを持つ」者としてくださったのです。それがイエス・キリストの救いです。この神の恵みを言い換えるようにして、「朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくたさいました。これは…天にたくわえられているのです」と書かれています。イエス・キリストを私の罪からの救い主と信じる者に、神は天の御国に生きるいのちを、受け継ぐべき資産、つまり相続地として与えてくださったのです。
ヘブル人への手紙9章15節にも、このようなみことばが書かれています。
「…キリストは新しい契約の仲介者です。それは、初めの契約のときの違反を贖うための死が実現したので、召された者たちが永遠の資産の約束を受けることができるためなのです」
人は、神が与えられた律法を、厳守するようにと命じられたにもかかわらず、みな律法に従うことができず、神との契約の違反者となったのです。しかし、イエス・キリストが仲介者となって私たちの罪の身代わりとなり、神のさばきをその身に負って十字架に死なれたので、それを信じて神の召しにあずかる者は「永遠の資産の約束を受ける」、つまり天の御国を永遠の資産としていただくことが約束されていると言うのです。
悲惨な出来事が次々と起るこの世に生きて、 この地上の生涯で終わりだとお考えでしょうか。それとも、地上で相続地を与えられるようにして、天の御国に朽ちない相続地が与えられるということを信じたいと願われるでしょうか。神はイエス・キリストによってこの天の御国を「ゆずりの地」、すなわち「賜物」として私たちに与えると約束してくださったのです。この資産は、決して『手放せない天の御国の相続地』なのです。私たちはただそれを信じて受け取れば良いのです。