「十字架を仰ぎ見て生きよ」
「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。
それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです」
ヨハネの福音書3章14〜15節
イエスはご自身の十字架の死の意義を解き明かされました。 つまり、 キリストを信じ仰ぎ見る者は、
滅びから永遠の生命へと移されると語られたのです。 そして 「モーセが荒野で蛇を上げたように、人
の子もまた上げられなければなりません」と言われました。旧約聖書の民数記に書かれているように
、モーセの時代に、青銅で作った蛇を仰ぎ見ることによって民が滅びから免れたように、イエス・キ
リストへの信仰によって救いが実現すると言うことです。また、「人の子もまた上げられなければな
りません」と言われたこの「上げられる」という言葉は、その同じ言葉が、十字架に上げられるとい
うことと共に、十字架の後によみがえられて天に上げられるということを表す言葉として用いられて
いるのです。ヨハネの福音書では12章32節に「わたしが地上から上げられるなら」とイエスは言われ
ました。またテモテへの手紙第T、3章16節には、キリストの昇天について「栄光のうちに上げられた
」と記されています。ですから、イエス・キリストの十字架と、死に勝利されてよみがえられたイエ
ス・キリストへの信仰が、「永遠のいのち」に生きる道だと聖書は語っているのです。
青銅の蛇を仰ぎ見ること、 『そのようなことでどうして赦されるのか』 と人は考えます。『イエス
・キリストの十字架が私のためであると信じる』、 それでなぜ永遠のいのちを得るのか と思います
。しかし、神が約束され、神がそうするようにと定められたのですから、神が定められた方法でな
ければ私たちにいのちはありません。人は、ただ信じて仰ぎ見れば良いのです。病気を治療するた
めに、医師から『この薬を飲みなさい』と言われた時に、私たちはそれでよくなると信じて薬を服
用します。救いは十字架とよみがえりのイエスを信じて仰ぐことによって与えられると神が仰せに
なるのですから、それを受け入れて信仰を告白するのです。
イスラエルの民は、自分を見るのでなく、蛇にかまれた傷を見るのでなく、自分の周囲の者を見
るのでもなく、ただ備えられた青銅の蛇を見ればよかったのです。私たちも、神が備えてくださっ
た十字架の救いを信じて見上げれば良いのです。ただ、神に逆らいつぶやいた罪の悔い改めが求め
られているだけなのです。『十字架を仰ぎ見て生きよ』、神はこのように私たちを招いておられる
のです。十字架にかかられ死んでよみがえられたイエス・キリストを、ただ信仰によって仰ぎ見る
ならば、永遠の滅びから救われて永遠のいのちに移されるのです。 神は「仰ぎ觀なば生べし」 と約
束されました。その約束を信じて「仰ぎ觀れば生たり」と、この神の恵みに共にあずかりたいと思
います。